行政の、チカラが及ばないもの、
その一つは「信仰」であると言える。
僕には、気になってた場所があった。
犬山市にある「成田山」だ。
キッチンカーでの帰り道、数回通ったことがあるのだが、
その存在感と神々しさが、僕の好奇心をかき回していた。
そしてついに、立ち寄ってしまったのだ。
吸い込まれるようにという表現が、ここまでピッタリな瞬間があるだろうか。



階段横の寄進柱など、至るとこに企業や個人名が、ズラーっと。
税金対策たちが軒を連ねていた。
営業で疲れた足や股関節は、文句を垂れながら稼働していた。さらに奥へと進む。


ついに来たか、本堂。


お香を立てた。


賽銭箱は、とても大きかった。

この大きさを”強欲”と表現すれば、必ずドバチ(罰)が当たるだろう。
その表現は自粛し、文章だけ置いていくこととする。
さあ、帰ろう。

実は、当記事の本題はここから入る。
だいたい、寺院によくあるものといえば、
「お守り」「御朱印」「お札」
さらには、「おみくじ」。
僕自身、お祈りやお参りは結構真面目にやる方である。
しかし、おみくじなどの運勢や、占い、スピリチュアルのようなものは、基本的に信じない。
ハッキリ言う。信じない。
血液型診断や、星座占いなども信じてない。
ハッキリ言う、くだらない。
人生を謳歌するうえで、そういう類に惑わされない足腰が必要なのである。
見ろ、あいつの足はガクガク震えてんぜ?
みっともないから、鍛えてみないか?
しかし、おみくじを全く引かないわけでもない。
紙切れ一枚に向かって、喜ぶのも憂うのも、場合によっては楽しいのだ。
さらに、おみくじに書かれている内容に、救われることもあるだろう。
その紙切れに100円使うこと、あなどるなかれ。
そういえば、僕は以前横浜中華街に足を運んだ。
街を探索していたら、一つの寺院を発見した。
その佇まい、僕の好奇心をなぶり倒してきた。
吸い込まれるようにという表現が、ここまでピッタリな刹那があるであろうか。
そこで買ったおみくじには、こう書かれていた。

愛人がいることが奥様にばれて、家庭内紛争になっていました。このくじは奥様に謝って、許しを乞うこと、そうじゃないと大損をすることを示しています。しかし、愛人と別れられないので、信用がなくなって、破滅に至りました。
ハッキリ言う、僕は潔白だ。
やはり、これからもおみくじは信じない。
ナム。


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